私は、高齢者の皆様の手の皺が大好きです。
私は、高齢者の皆様が笑顔になられた際のお顔に深くはいる皺も大好きです。
なぜかと言うと・・・
その一本一本の皺が人生という年輪を表しているように思えて・・・
非常に尊く感じるからです。
なぜ尊く感じるかと言うと・・・
現在の豊かな日本があるのは、そんな高齢者の皆様お一人お一人の弛まない努力の賜物であり、そんな皆様が戦後の動乱期を生き抜いてくれていなかったら・・・
我々自身もこの世に生を受け存在をしていないかもしれない・・・
そう思うと・・・
直接的な命の繋がりはなくとも、間接的に深い命の繋がりを感じるからです。
申し遅れましたが、私は三重県内にて通所介護事業所(デイサービス)を経営している
株式会社樹(いつき)代表取締役の樋尾重樹(ひおしげき)と申します。
ここで少し株式会社樹の変遷をご紹介させて頂きますと2013年4月に私の愛してやまない地元四日市平尾町にて第一号店を開所させて頂き、2016年8月には伊勢営業所、2019年2月には津営業所、そして2020年10月に四日市南部の小古曽にて施設をオープンさせて頂きました。
また、現在の四日市営業所・伊勢営業所におきましては、毎日平均50名以上もの高齢者の皆様に施設をご利用頂き稼働率90%以上、そして四日市営業所におきましては開所して以来、離職率10%以下という数字を達成しております。
実のところ私は「介護」はド素人なのですが、良縁に恵まれたお陰で現在まで約20社の代表取締役或いは役員等を兼任して参りました。
嬉しいことに今では後輩達の素晴らしい成長により、自身が育んだ企業と経営権を後輩に託し、現在私が経営している会社は以下の8社です。
具体的な業種としては、不動産業・不動産管理業・給食事業・介護事業・飲食店事業・民泊事業・IT事業、変わり種で呉服屋の経営をさせて頂いております。
今後も「人財」と呼ぶに相応しいたくさんの「人」を育み、自身の企業を譲っていくつもりです。
そんな私や私の経営する会社、特に株式会社樹を熟知していただく為には、私の人生をお伝えすることが一番わかりやすいと思いますので、少々長くなりますがお付き合いを頂ければ幸いです。
少しお話が変わりますが、私の苗字の「樋尾」って珍しい苗字だと思いませんか?
「樋尾」という苗字は、四日市西部の平尾町という場所に多く存在する苗字です。
平尾町にお住まいになられている約7割の皆さんが同じ「樋尾」という苗字の為、宅急便会社さん泣かせの地域なのです(笑)そして、私は「樋尾」という苗字の本家の長男で、残っている家系図によるとちょうど23代目になります。
それだけを聴くと・・・
さぞかし恵まれた環境で育ったのだろうなぁ~と思いませんか?
確かに物質的には恵まれていたかもしれません。
ですが、今思うと精神的には貧困であったように思います。幼少期には結構つらい思い出がたくさんあります。
例えば・・・
ちょうどバブル時代に親父が超高級車を買ったことと、私の至らない部分(生意気な部分)が原因で「いじめ」にあいました。具体的に言うと徹底的な「無視」です。
親も気付いてくれない・・・親にも気軽に言い出せる環境でもない・・・
先生も見て見ぬふり・・・友達だと思っていた人たちも助けてくれない・・・・
そんな地獄のような状況が続き・・・
結果、私は誰も信用しない子どもになってしまいました・・・
そんな幼少期の私の一番の癒しは、近所のおじいちゃんやおばあちゃんの家に毎日遊びにいくことでした。しかも、月曜日には〇〇じいちゃんの家、火曜日は〇〇おばあちゃんの家等、事前に予定を決めて遊びに行っていました!
どのおじいちゃんやおばあちゃんの家に行ってもいつも快く迎えてくれて、手作りのあられやかりんとう等を食べながら、戦時中の苦労話や「人」としての在り方、人生を楽しむ秘訣やおばあちゃんの知恵袋的な話等をいつも楽しく聴かせてくれました。
そんな生活が中学生位まで続いたと思いますが、高校受験の時期がやってきました。
勉強は好きでしたが、親戚一同が全員進学している高校には結局入学出来ませんでした。
受験に失敗したことを聴いた親戚一同から、
「重樹で本当に本家は守れるのか?」
と自身の前で言われたのが凄くショックで今でもその光景を鮮明に憶えています。
そして、この後私がどのようになったかってだいたい想像つきますよねぇ~
はい!想像通り当然グレましたぁ~(笑)
そして、おじいちゃんやおばあちゃんの家に行くこともなくなりました。
因みに高校時代の私のあだ名は「プッツン君」です。
なぜそのようなあだ名がついたかと言うと・・・どんな手段を使っても喧嘩で勝てば良いと本気で思って、毎日喧嘩ばかりしていたからです。
そんな生活でしたから、勉強は入学した当初の実力テストでは学年で3番、進学クラスに入ったものの高校2年生の夏にはドベから3番と言う状況でした。
その当時、喧嘩以外に没頭したのはテニスです。テニスを好きになった理由は、顧問の先生がボンクラだった私を凄く優しく接してくれたことも影響していると思います。
この先生が凄いところは大人になってようやくわかったのですが、すべてのことを否定せず、相手の主張を聴き終わった後でアドバイスを一つだけするような先生でした。
ある日、その先生が私の人生を変えます。
ちょうどドベから3番になった時に先生の自宅でBBQをしながら一緒に肉を食べていた時に言われたのは、
「樋尾!大学に行かないか?お前テニス上手いから凄く女の子にモテるぞ!」
って。挙句の果てになにやら押し入れから本を出してきて僕にくれました。
それは参考書と問題集であわせて20冊程あったと思います。その当時の自分は停学にも何回もなっていましたし、全く大学に進学する気もなく、高校を卒業したら手に職をつけて家を出ようと考えていましたので凄く面喰いました。
でも「女の子にモテるぞ!」という言葉につい反応してしまい、どうしたら大学に行けるのかを聴きました。
そうすると先生から言われたのは、
「授業は受けなくてもよいから、一日8時間この参考書と問題集とにらめっこしていたら、お前なら大学に行けるよ!」
と笑顔で言われました。
そこから毎日大学で「モテる」ことを想像しながら先生の言うことをちゃんと守って勉強するようになり、おかげで何とか大学にも進学できました。
今思うと先生に上手く乗せられたなぁ~と思う反面、感謝の気持ちでいっぱいです。そんな先生とは今でも定期的に酒を酌み交わす義理の親父のような存在です。
もう一つの人生の転機は、大学に進学したおかげで親友に恵まれました。あなたは何名親友と呼べる人がいますか?
私は現在5名ですが、全て大学時代での親友です。
大学に入って少しだけ人を信用できるようになったのはこの友人たちのお陰です。
この友人たちの中の3名とその当時名古屋にある大型商業施設で夜間清掃のバイトをしていたことがきっかけで、清掃会社を作ることになりました。
清掃会社を作るに至った背景や経緯も面白いのですが、話が長くなるので今回は割愛させて頂きます。
これが私の経営の原点なのは間違いありませんし、今でもこの会社は大学時代の親友が経営しております。
そこからもう一人の大学の親友が清掃会社で貯めたお金を投資して面白いお店をはじめます。
どんなお店かと言うとその当時は「ランパブ」と言って女性をメインのお客様にした飲み屋さんです。今で言うと「ホストクラブ」の走りのようなものです。
その親友がお店を立ち上げてから3か月後に接客・接遇マナーの教育と多店舗展開を視野に入れたマネージングをして欲しいとの打診を頂きました。
ちょうど清掃会社の経営も安定成長期に入っていた為、面白いなぁ~と思いすぐさま飛び込みました。今では全国に7か所店舗があります。
今思い返してみると、ここで社内でのマネージング力や自身の営業力・会話力を身に着けたような気が致します。
しかしながら、この二つの企業を成功に導けましたが、その当時の私はある意味天狗になっていたと思います。もともと私の家業は不動産業でちょうど私で三代目になります。
幼い頃から家業を継ぐものだと思い込んでいましたので、たぶん刷り込みをされていたのでしょうね。(笑)
小学校6年生の卒業文集の将来の夢には「不動産王になる!」って書いてありましたよ!
そして、その当時ハウスメーカーの勢いがよく今後不動産業を営むうえでも修行先としてはもってこいと思い、大学時代に立ち上げた企業の役員を抜け大手ハウスメーカーに就職致しました。
赴任した際の私の最初の挨拶は、
「低迷しているこの〇〇支店を再生する為にやってきました樋尾重樹と言います!一ヶ月には一棟必ず契約しますので宜しく!」
です。先輩方に失笑されたのを今でも憶えています。
そんな挨拶をしたにも関わらず、同期が一棟、二棟と契約していく最中、私はと言うと半年間契約が取れずの状態でした。でもいつかは挽回できると思っていました。
そこにまた新たな転機が訪れます。就職した大手ハウスメーカー内でも非常に有名であった年間最多契約数を誇る人が、若くして所長として赴任してきたのです。
赴任早々から個人面談が行われました。
当然私もその対象者の一人として一通り形式的な面談とヒアリングが終わった後に「樋尾君!入社時の挨拶内容を教えて貰ったよ!」と笑顔でいわれ、「ばかにされているのかな?」と思った後に「まだ、その気持ちは変わってないかい?」と聴かれました。
一言「当たり前です!」と答えると所長は笑みを浮かべながら、「よし!わかった!君は明日から営業を離れ、私の鞄持ちになりなさい!」って・・・
「戦力外通知ですか?」と聴いたら「信じるか信じないは、あなたしだいです!」と都市伝説風に言われました(笑)
次の日からは朝からお迎えにあがり、様々なお客様との商談や銀行との折衝、社員への労いの言葉かけや叱り方、色々な光景を目の当たりにしレベルの違いを思い知らされました。
鞄持ちを始めてから一週間後位に私が始めたことは、その所長が話す一言一句をめもり、表情や声のトーン、喋り方等を徹底的にコピーする為の練習を、鏡をみながら毎朝・毎夜始めました。
その当時よく飲み会で所長のものまねをしていたので、当時は「ミニ所長」と呼ばれていました。
そんなかんなで三ヶ月が過ぎようとしていた頃に所長から「樋尾君!そろそろ展示場に勤務しようか!」と突然言われ、不安そうな顔をしていると「だてにメモして私のものまねしていたわけじゃないやろ!」って言われ「大丈夫!トップセールスマンになってきない!」と笑顔で言われました。
それまで八か月間契約が0でしたが、赴任後は恐ろしいくらい契約がとれるようになっていました。
たぶん契約がとれなかった時期は、自分の今までの成功から得たちっぽけなプライドが邪魔をして、一番大切なお客様の気持ちを理解しきれていなかったのだと今は思います。
それから二年目にはトップセールスマンになることができました。
しかし、ここでまた私の悪い癖が出てしまい天狗になってしまいます。
珍しく親父から電話があり、そろそろ家業を継がないかという話をもらいました。まだハウスメーカーで力を試してみたい気持ちもありましたが、家業を継ぐことは私の長年の夢でもありましたので、所長に相談し家業を継ぎに戻ることに決めました。
そんな最中、今までの人生の中で一番大きな転機を迎えます。
仕事が忙しく体調を壊し2週間位病院に監禁されたことは過去にありましたが、同じような症状が出た為、自宅の建て替えをさせて頂き仲良くなったドクターのところに遊びにいくような感じで受診をしました。
診断結果が出たようで呼ばれて病室に入るといつものドクターの顔ではありませんでした。
非常に切羽詰まった表情で、
「樋尾君。俺の恩師がいる病院を紹介するから今からすぐに行きなさい!」
と言われました。ドクターの言い方と真剣さに焦りと不安を感じた為、すぐ出向く事にしました。
精密検査の結果診断された私の病名は「白血病」でした。そして5年以内の生存率は約50%とも宣告されました。
白血病は大きく六つにわけることができるのですが、私の白血病は基本的に骨髄移植が一番有効な手段であり、抗がん剤治療での全快事例は非常に少ないこともドクターから聴きました。
ドナーも探しましたが適合する人もいなく、ただひたすら効くか、効かないかもわからない抗がん剤を打ち続けてドナーを待つ生活をしていました。
そして、そのしんどい時に、
「やっぱり神さんみたいな人がおって今までのばちが当たったんやろなぁ・・・もしこの白血病が治ったら自分の為ではなく人の為に尽くせる、そして人に頼られるような大きな人間になろう!」
といつも思っていました。
そんなある日、大きな転機が訪れます。
たまたま大学時代の悪友で老舗呉服屋を経営する若旦那が見舞いに来てくれました。
勿論無菌室なので入れないのですが、元来横暴なところがあり、看護師さんを振り払って病室に入ってきました。
そして、一言目に
「しげちゃん!弱っとるらしいやないか!どないしたら治んのや!」
と言われました。
私はしんどくて喋れなかった為、婦長が病室の外で骨髄移植の話をしてくれたのだと思いますが、外では騒がしく
「俺の骨髄使えばええやん!」
という大きな声が聴こえてきて、「相変わらずやなぁ~」と思いながらも久々に笑みがこぼれたのを今でも鮮明に憶えています。
でもその友人が来た三日後に驚くべき結果が出ます。
骨髄の移植可能という判断です。何億分の一の確立だそうです。
その二週間後騒がしい友人と二人で手術室に入り移植手術を無事終え、術後の経過も良かった為、約三か月で退院し家業を無事継ぐこととなりました。
今経営している8社の中で、変わり種で呉服屋という記載がありましたよね。
実は私に骨髄をくれた友人は、骨髄移植をして三年後、交通事故で亡くなってしまいます。
亡くなった後にわかったことは、由緒正しき老舗の呉服屋であったにも関わらず友人の浪費癖の為、多額の借金があることを告別式の後に友人の嫁さんから教えて貰いました。
私はこの友人から命をわけて貰ったと思っています。その恩返しとして無いお金をかき集め、それでも足らないお金を銀行から借り、迷わずその多額の借金を肩代わりさせて頂き、現在に至っているのがこの呉服屋です。
今でもよく思うのは、私は一度白血病で死んだ身であり、残りの人生はおまけ位にしか思っていません。
そして、この友人の分まで濃密な人生を送る必要があり、何かを成し遂げなければならないことがあるから、神さんが生かしてくれたんだと思っています。
そう思うようになってからの人生は本当にたくさんの人との良縁に恵まれ、「幸せ」や「やりがい」に満ちた人生となっています。その結果の一つとして20社の企業の代表取締役或いは役員をさせて頂くことになったのだと思います。
人にはそれぞれの「使命」があると私は考えています。
「使命」とは「命」を「使う」と書きますが、20社の企業を経営することがはたして私の「使命」なのだろうか?そんなことを30歳前半の時によく考えていました。
では、なぜそんな私が『介護事業』を行うことが自身の「使命」と思ったのかと言うと・・・
私の経営する会社には必ず企業理念が存在致します。企業理念の大切さは後ほどお話させて頂きますが、、
ちょうど私が三十五歳の頃、自身が経営する会社の企業理念をすべて印刷し畳の上に並べてみたのです。
そして、一言一句ゆっくりとすべての会社の企業理念を舐めまわすように読み返すと・・・
驚くべき事実に気付かされました。
先程も申し上げたように私の会社は、企業理念を非常に重んじています。
ですから、私自身企業理念を創り上げる際には膨大な時間を掛けますし、「0」から「1」或いは「無」から「有」を生み出すような努力を経てようやく完成するのが企業理念です。
しかし、自身で考えに考え抜いて創りあげたつもりの企業理念は、実はどれもこれも幼少期に近所のおじいちゃんやおばあちゃんの家に遊びに行っていた際に教えて貰ったことの言葉の引用或いは文字変換に過ぎないことがわかったのです。
その時初めて思ったのは、私の努力や運なんかで今の自分自身の地位を築いたのではなく、私の「人としての成り」や「企業経営者」としての礎は、幼少期に色々なことを優しく手ほどきしながら教えてくれた高齢者の皆様ということがわかり、感謝の気持ちでいっぱいになったと同時にそんなことも今まで理解できていなかった自分自身に憤りさえ感じました。
その後、私が命を使ってでもやらなければならない「使命」とは、自身を育んでくれたこの三重県と高齢者の皆様への恩返しだと決意致しました。
そして出来上がった会社が株式会社樹であり、己の使命を果たすことを誓う意味も踏まえ、自身の名前の「重樹」の「樹」を会社名とさせて頂きました。
自身の「介護事業」への熱い想いと高齢者の皆様への「畏敬の念」を具現化させたものが下記企業理念です。
少し補足させて頂きますと、「畏敬の念」とは本来神仏等に用いる言葉であり、「畏れおののく」という意味ですが、「尊敬する」という言葉ではあまりにも高齢者の皆様に対する言葉としては軽く感じましたので、「畏れおののく程の尊敬が必要」という意味で使用しております。
株式会社樹 企業理念
我々は五つの「気」(樹 いつき)を大切にし、介護支援を行います。
- 我々は、感謝の気持ちを常に持ち「気配り」ある介護支援を行います。
- 我々は、笑顔で心のこもった「気遣い」ある介護支援を行います。
- 我々は、「気働き」溢れる介護支援を行います。
- 我々は、思いやりの精神を大切にし「一団和気」の環境を育みます。
- 我々は、「意気」に富んだ人財を育成致します。
お気づきになられましたか?「」の部分にすべて『気』という漢字が入っていて、合計すると五つですよね。だから「五つの気」なんです。そしてちょっとしたゴロ合わせですが、企業名の「樹(いつき)」=「五つの気」なんです。
我々いつき職員一同は、この企業理念を非常に大切にしています。
また、いつき四日市を開設するまでに約200の多種多様な介護施設や現場を見学させて頂きました。そして、現場で働く職員の皆様の生の声を聴かせて頂き、非常に勉強になりました。
しかしながら、企業としての魅力や経営理念がない会社、未来を見据えた具体的なビジョンが無い企業或いはビジョンはあるものの達成できていいない企業、現場の疲弊しきった声に耳を傾けない企業、正当とは思えない賃金の支払い、ワークライフバランスが整った企業は残念ながら一割もありませんでした。
そして、社会的な風潮として「介護」は誰でもできるとか、その他産業に比べ下に見られる傾向があるのも事実です。
株式会社樹には役員運動指針というものがあります。それは、主に二つです。
一つ目は、
「五つの気」という概念を三重県から全国に発信し、「介護先進県 三重県!」を目指す!
二つ目は、
「介護業界に勤しむ尊い職員達の社会的地位向上及び賃金向上」に努める!
これは「行動」ではなく「運動」ですから、直接的なものではなく波紋上に人を介して概念を広げ、社会変革を促すものです。
また、最近気になるのは、介護業界における施設内でのご利用者様の転倒リスクに関する考え方です。
人間は生まれたばかりの時は歩く事さえできない動物です。
しかし、赤ちゃんから成長するにつれてハイハイをし、つかまり立ちをはじめ、何度も転倒しながら二足歩行ができるようになります。
私は機能訓練指導員のような専門家ではありませんが、「人間」という生き物は脊椎動物であり二足歩行をする動物です。
ですから、二足歩行をしなくなれば当然筋力が低下しますし、内臓も弱くなってしまいます。
私は、転倒のリスクばかりを回避する介護は実は高齢者の皆様の健康維持・向上の阻害に繋がるのではないかと考えています。
ご利用者様の命の安全とご家族様に安心して頂ける施設運営は必須ですが、やはり転倒のリスクばかりを考えた過剰な介護は本来の介護と呼べないのではないでしょうか?
この考え方を変える為には、まず介護業界が変わらなければいけませんし、介護業界が変わらなければご利用者様のご家族も含む社会的風潮も変わらないと思います。
本メディアでは、赤裸々に介護現場での実情や課題、そして自社・他社での成功事例等をご紹介していくつもりです。
そして、高齢者の皆様がどこの、どんな介護施設に頼ることになっても「最高の笑顔」を導き出せる社会になることを心より願っております。
是非、皆さん!少しでもご共感頂けましたら、お時間のある際にこの「ほっとけやん.com」を覗いてみて下さい。今後とも引き続き宜しくお願い致します。
株式会社樹 代表取締役 樋尾 重樹